繰り返される慰安婦論争 大沼保昭氏
そこが聞きたい:繰り返される慰安婦論争 大沼保昭氏
毎日新聞 2013年06月19日 東京朝刊
◇波風避けず議論重ねて−−明治大特任教授・元アジア女性基金理事、大沼保昭氏
橋下徹・大阪市長の「当時は必要だった」との発言で、旧日本軍の慰安婦問題が再び注目されている。なぜ、論争は繰り返されるのか。「アジア女性基金」=1=呼びかけ人・元理事として実際に問題解決に尽力してきた大沼保昭・明治大特任教授に聞いた。【聞き手・青島顕】
−−橋下市長の発言をどう受け止めましたか。
ショックでしたが、すぐ「よくぞ本音を言ってくれた」と拍手喝采する人が出るだろうとも考えました。この20年ほどで、戦後責任問題に対する反応が変わってきています。慰安婦問題への日本の努力が韓国や国際社会から評価されなかったうらみつらみが積み重なり、こうした発言の素地を作っている。不況による生活苦、いじめ、高齢化社会と見通しが暗くなり、国民が自信をなくしている。1990年代前半までは経済的に豊かで自信があり、過去の過ちを認める心理的なゆとりがありましたが、バブル崩壊でそれがなくなった。そこに慰安婦問題が重なりました。
−−難しい時代に歴史問題がのしかかってきたと。
慰安婦問題には法、道徳、政治、歴史、フェミニズムなど多様な側面があります。国家補償しようにも、平和条約や韓国との請求権協定などで法的に解決済みという状況がある。対処するには並外れた政治的力量が必要ですが、それを支える一致した世論はなかった。韓国や国際社会とのあつれきもあり、被害者、フェミニズム、支援する非政府組織(NGO)、各国政府、分裂した国民世論の全てを満足させる解はないのです。できるだけ多くの被害者に最低限の満足をしていただき、他の方々には「不満は残るが仕方がない」とのみ込んでもらうしかない。それがアジア女性基金による償いでした。
−−その女性基金には不十分だと批判も出ました。
一部の「良心的」な学者やNGO、ジャーナリズムは、社会の大多数を占める俗人には実現不可能な高い目標を掲げ、韓国メディアのむちゃな議論にも反論しなかった。不満が高まった庶民感情とずれ、(被害者に)謝っても評価されず、その結果、(償いは)ばからしいという鬱憤を生み出してしまいました。
−−強制性を立証する文書を見つけられなかったことを理由に「強制はなかった」とする主張をどう評価しますか。
まともな学者なら右寄りの方も、一部強制があったことは認めています。各国の被害者が示し合わせたわけでもないのに、細部は違ってもほぼ同一の証言をしており、多くの方々がだまされて慰安婦とされたことは間違いありません。「文書の証拠がないから事実がなかった」というのは学問的に全くの誤りです。それなのに決して学問的でない主張を一部の政治家が信じてしまい、問題をさらに悪化させてしまいました。
−−メディアの責任にも言及されましたが、今後メディアはどのような役割を果たすべきなのでしょう。
もう少し日本のよい面を報道して国民を元気づけましょうよ。工業デザイン、ファッション、建築、映画、アニメ、漫画。日本が評価されていることは山ほどあります。乳幼児死亡率を低くする母子手帳のシステムは、国際社会で高く評価されている。日本社会の安全性や社会サービスの質の高さはもちろんです。メディアは対論、激論など両極の意見をぶつけて対立をあおるのではなく、一見対立する人々の共通点を探り、報道されない多様な意見もすくい取ってほしい。慰安婦問題についても本格的な検証報道を考えるべきでしょう。
−−日本政府は今後、慰安婦問題にどう取り組むべきでしょうか。
政府は90年代にそれなりの謝罪や努力をしましたが理解されませんでした。広報の意志と能力が決定的に不足したからです。政府とアジア女性基金がやったことを、ドイツなど欧米の国々の戦後補償の在り方と比較して冷静に発信すべきでした。
−−アジア女性基金の償いとして、踏み込んだ内容のおわびの手紙=2=に首相が署名して渡したことがあまり知られていません。
この点は本当に残念です。そういうことすら日本政府は発信しませんでした。基金のメンバーが「もっと広報しましょう」と言うと官僚組織から必ず止められた。国会答弁や外国との交渉が複雑化するのを避けたかったのでしょう。発信すれば波風は立ちますが、避けていたら何も変わりません。
−−健全な批判をすれば中国や韓国に聞いてもらえますか。
私は中国、韓国でも、相手国側の問題点も批判しながら議論していますが、話が通じなかったことはありません。小泉純一郎首相(当時)が靖国神社に参拝した翌日、北京の清華大学で講演したことがあります。大学当局は厳戒態勢を取りましたが、会場は冷静で、建設的な議論ができました。政府も国民も、そしてメディアも過ちは認め、力みを捨てて客観的な事実を提示し、積もり積もった誤解を一歩一歩解きほぐす手間を惜しむべきではありません。
◇聞いて一言
今年1月、東京・銀座で米軍普天間飛行場へのオスプレイ配備に反対してデモ行進する沖縄県の市町村代表らに向かって、日章旗を掲げた集団が「売国奴」「中国の手先は出て行け」とののしった。町にもネット上にも一方的で攻撃的な言動が目につき、人と人の対立が深刻になってきた。対話の糸口はあるのだろうか。慰安婦問題に粘り強く取り組み、左右両翼から批判を受けてきた大沼教授の話を聞いて、この国の現実と向き合い、冷静に解決の道を探さなければと改めて考えた。
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■ことば
◇1 アジア女性基金
村山富市内閣時代の1995年に財団法人として発足し2007年に解散した。戦時中に旧日本兵相手の慰安婦とされたフィリピン、韓国、台湾、オランダ、インドネシアの計364人に、(1)首相の謝罪の手紙(2)国民の拠金から1人当たり200万円の償い金(3)政府の資金による1人当たり約120万〜300万円の医療福祉支援−−の「償い」を届けた。
◇2 首相のおわびの手紙
「いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。私は、日本国の内閣総理大臣として(中略)心からおわびと反省の気持ちを申し上げます」の文面で橋本龍太郎氏から小泉純一郎氏まで歴代首相4人が署名した。
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■人物略歴
◇おおぬま・やすあき
1946年生まれ。専門は国際法。元東京大教授。著書「『慰安婦』問題とは何だったのか」、「慰安婦問題という問い」(共編)。